清凉寺縁起


 「我はここに埋まっておる、早くほりだせい」

寛永十二年(1635年)秋の夜半、伊勢国白瀬(しろせ)村の百姓又兵衛の耳元に囁く者がある。
晩秋とはいえ、東を養老の山、西には江州(ごうしゅう)との境をなす江州山(藤原岳)に囲まれた山地には、伊吹下ろしが霙(みぞれ)の数日をつくり出していた。
既に粟、稗の取込みは終わり、畦の大豆の黒鞘の毛が朝霜に光る頃となると、この辺りには、田畑に手を煩わされることのない一時がおとずれていた。

 

 又兵衛も半畝(はんうね)あまりの畑から大根を抜き、雪に備えるための保存穴に並べ、筵(むしろ)で覆い、更に黒土をかけるとやることもなくなった。
「どれ、音頭とりの稽古にいくか、もうだいぶやっとらんで」 その頃の催しごとには、「音頭とり」と呼ばれる役割があり、その伊勢音頭などの節回しに合わせて人々は行事を進行していった。
そこでのご祝儀がけっこうな生活の足しになっていた。
 もちろん誰にでも務められるものでなく、地域ごとに誰某と決まっていた。
又兵衛も、将来のその地域の後釜にと、他の若者同様、稽古にはげんでいたが、幼少のとき受けた肩傷による曲がったままの腕が進歩を阻んでいた。

 

 新田の祠の広場にはもう3、4人が集まっていた。
ここには、寺の宝物を埋めて隠したとの言い伝えがある。
四十数年前に織田信長の命により尾張蟹江城主滝川一益が長島一向宗を攻める際にこの付近の寺を焼きはらっている。
まだ戦乱の記憶は生々しくそれを確かめようというものはいなかった。

 一通りの節回しを聞き、数度繰り返すころには、晩秋の夕昏はつるべ落としに迫ってきた。
江州山の炭焼きも山を降りると、この辺りも雪に閉じ込められる日々が続き、その年は暮れていった。

 

 明けて寛永十三年正月(1636年2月6日)、百姓の正月は、華やかではないが、縁者の出入りがあり、年一度の濁酒(どぶろく)も出る。
又兵衛も早朝から氏神様へ、墓へと参り廻った。雪道ではあるが、おろしたての藁(わら)草履(ぞうり)は濡れないので足は冷たくはない。

 

 「さあ帰って子供らと遊ぶか」。 暫く見ぬ間に大きくなった甥姪が息子達とはしゃぐ相手をし、親戚との話もつきないまま元旦も暮れ、その夜は眠りについた。

 

 今夜もまた囁き声に目が覚めると、つし(穀物を蓄える屋根裏の物置)の一角が明るくなっているのに気がついた。
―池に反射した月の光か、それにしても明るい、餌をとりに出かけたムササビのやつが戻ってきた足音に起こされたか・・・
 「我はここに埋まっておる、早くほりだして安置せい」
一段と高い声にがばっと起き、光の方角に目をこらすと薬師如来が!
 その施無畏印(せむいいん)を結んだ右手が示す方向をみると自分の畑の一角が見えた。
思わずひれ伏し「南無阿弥陀仏」と唱え、再び目を上げると、もとの闇が雪明りの中に広がっているだけであった。
  ― 夢か、それにしても ・・・

 

 日の出を待たずに、一丁の鍬を肩に件の畑へ向かった。
雪を掻き分けそれと思しき一角に鍬を振るい始めた。
畑とはいえ元は山であったので土と石が硬く締まり、中々はかがいかない。

 小一刻もたち、朝日が雪に覆われた江州山の山頂を橙色に染め始めたとき、急に肩が軽くなり、すうっと伸びた腕により振り下ろした鍬が抵抗も無く土を破り一尺径の穴を空けた。
「おおこれは!」急いで穴を広げると二尺長あまりの木箱が見える。
蓋は腐りかけていたが手では開かないので、鍬で抉るように叩いた。
ピシッと音がし勢いあまった鍬の刃先が中の木辺に当ったようだ。

 蓋は壊れ、中からは木造の仏像が・・・

 その後、その場に祠を建て、掘り出した薬師如来座像を安置した。
以来375年間又兵衛の子孫伊藤家一党で小さな寺を建て守ってきている。
肩の癒えた又兵衛は音頭とりとなり、それも代々受け継がれてきた。

 また掘出した時に付いた鍬の刃傷は今も首に残っている。      合掌



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